東京高等裁判所 昭和28年(う)3657号 判決
被告人 藤塚哲夫
〔抄 録〕
甲弁護人論旨第一点及び乙弁護人の論旨第一乃至第六について。
原判決挙示の証拠によれば、被告人が原判示日時頃場所において判示物置一棟を焼燬する意思で所携のマツチを使用して、同物置内にあつた麦藁束に点火放火したことはこれを認めるに十分である。
原審並びに当審において取り調べた証拠に現われた全事実によれば、藤塚類吉方風呂場は主家屋内にあつたもので煙突の設備はなく、風呂焚の火粉が屋外に出る虞は全くなかつたことが明瞭であり、又物置内には自然に発火するような物品は何等存置されておらず、電燈の設備もなかつた事が明かであつて、本件火災が漏電やその他の自然発火或は失火に基くものとは到底認めるには足らないのである。
而して被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書が所論のように強制誘導に基くものであることは被告人が原審公判廷において供述するところであるが、証人金井秀雄の原審並びに当審における各供述によれば、被告人の捜査係官に対する供述は脅迫、強制に基くものではなく任意の供述ではあることを認めるに十分であつて右被告人の公判供述は到底信用するに足らないところである。
従つて被告人の供述が司法警察員の予断を被告人の供述という形式で記載されたものであるというような事は全くその根拠のないものと認める。
又その供述の凡てが虚偽のものとはその供述に自然性のある点から見ても全く認められないところである。
次に本件放火の動機は原判示の如くで誠に放火の動機としては薄弱に過ぎるものであるが、被告人が原判決も認定する如く痴愚の重症者である点から考えればあながち動機としては肯定出来ないところではない。心神粍弱者なればこそ通常人には考えられない心理作用が起るものと認められる。
更に被告人が昭和二八年四月一五日夜帰宅した時間は同日夜九時頃から一〇時頃である旨の原審並びに当審における証人藤塚時雄、同藤塚きんの供述(藤塚きんは検察官に対する供述調書もある。)は原審並びに当審における証人藤塚美里の供述に対照し、且つ藤塚きんの供述は当審においては被告人が帰宅したのは一〇時半頃である旨訂正されている点から見れば、たやすくは信用するに足らないところである。しかし乍らなお被告人が本件火を放つたのは同夜一一時頃であり、本件火災が発見されたのは翌四月一六日午前〇時過頃であつて、その間約一時間の差異のあることは原審並びに当審が取り調べた証拠に現われた事実によつて明瞭である。
しからばこの時間の差異は何に基づくかにつき按ずるに、被告人の司法警察員に対する供述調書の記載によれば、被告人は麦藁束にマツチで点火したところ、急に勢よく燃え上つたので、これに驚いた被告人は携えていた上衣で火焔を叩き伏せ足で踏む等して火勢を弱め、一旦残火程度にして置いて帰宅したことが認められるので、この残火が順次勢を盛り返えして本件火災に到達する迄には相当の時間を要するものと認められるから、被告人の所為と本件火災が発見された時間との間に約一時間の差異のあることは必ずしも実験則に違背する時間のくい違とは認められない。(一時間あれば、被告人は帰宅して床に就くことは充分出来るのである。)
さて次に本件マツチの点について、当審証人藤塚時雄、同藤塚きんの供述によれば、被告人が本件マツチを携えて外出した事実はあり得ないが如くであるけれども、両証人の右供述は当審証人須藤三の公判供述に対比すれば、到底信用するに足らないものである。本件マツチは被告人の指示したところから発見押収されたものであつて、この点に関する被告人の原審公判供述も信用できない。本件記録によつては他に本件放火が被告人の所為でないことを確認して原審認定を覆すには足りない。
以上のとおりであるから論旨中被告人は本件物置に放火したものでない旨の点は理由のないものである。
しかし乍ら、本件物置に放火するに際し、これに火を放てば、これと僅かに三間しか離れていない藤塚類吉方住家にも延焼するであらうことは通常人ならば何人も当然容易に予見しうる事柄であり且つ予見すべきことである。ところが、被告人の如き心神粍弱者がこれを予見しうるであろうか、被告人の右供述調書中には恰もこれを予見したかの如き供述が存在するのであるが、これは取調に当つて理窟を説明された為にこのような供述となつたものと認めるのを相当とし、この供述記載があるからというて本件犯行当時被告人が住宅に延焼する事を予見していたものとは認めることはできない。被告人のような心神粍弱者には到底物事の推理による判断、予見の如き精神作用は期待でないと認めるのを相当とする。他に本件記録によつては、被告人が住宅を焼燬する目的のあつたことは勿論、住宅に延焼する事を予見した事実を認めるに足る証拠は存在しない。
しからば、原審が被告人が本件物置に放火するに当り、藤塚類吉方居宅にも延焼することを予見した如く認定したのは明らかに事実を誤認したものというべく、この誤認は勿論判決に影響を及ぼすものであるから結局論旨は共に理由があり、原判決は破棄すべきものである。